あいつに――――あいつに私のことがわかってたまるか。

 真名はただ、そんな感情だけに支配されていた。
 どうにもならない憤り、後ろめたさ、腹立たしさ、後悔の念。
 ひどく憤慨する感情と、自分の我が侭な行為を忸怩する感情。
 その二つが拮抗して、ただただどうにもならないくらい収まり切らない気持ちだけが先走ってしまっていた。
 
 過去に、真名は想い人を失っている。
 二年前のことだ。もう忘れているつもりだった。
 つもりだったのに。
 
 ただ、楓のあの態度と重なって見えてしまったのだ。
 いつも自分のことを気に留めて、相談にも乗ってくれたあの人の姿が。
 それが、どうしても辛かった。
 居た堪れない気持ちになってしまった。
 愛していた、故にそれを失ってしまって。そして、友人に故人の姿を重ね合わせてしまった。
 それがどうしても後ろめたくて、腹立たしくて――――もはや届かない何かを見せられてしまったような、そんな気がして。

 咄嗟に、爆発した感情に任せて逃げてしまった自分が、信じられないくらいに無様に思えた。

 そんな感情の中で、真名は走っていた。

 ただその先に何か救いがあるような、ただ走って――――それで何かがわかるような気がして。


 やがて、凄まじい肺の痛みに気がついて、真名は立ち止まった。
 息はもう切れ切れで、身体がひたすらに酸素を求めていることがわかる。
 汗がどっと吹き出て、制服がべったりと身体に張り付く。革靴で走って来たためだろう、足の裏やかかとがずきずきと痛む。
 ――――空はもう、朱に染まっていた。

「――――っはっ、はぁ、はぁ……」
 
 立ち止まり、膝に手を置いて支えるようにしながら、真名は荒く息をつく。
 まるで数時間息を止めていたかのように、止め処なく欲される空気を欲するがままに貪るように吸い込む。
 しかし、ただただ本能的な呼吸はまともに酸素を汲々することままならず、まともに深呼吸できるようになるまで
少しの時間を必要とした。酷い息苦しさから、制服のボタンを外し、口から垂れそうになる涎を手の甲でぐっと拭う。

「……ここ、は……」

 少しずつ息が整っていくと共に、目に殆ど入らなかった辺りの景色が明瞭になってきた。
 どの程度走ってきたのか検討もつかないが、少なくとも中等部の敷地内じゃあないようだった。
 そこは、森のような場所だった。
 とは言っても、少し耳を澄ませば、行き交う車の音や人の声が微かながらも聞えてくる辺り、どうやら公園のような場所らしい。
 足元の地面も、古びた石のタイルが敷き詰められていて、少なくとも人の手の届く場所にある、ということがわかった。

「――――はっ、はぁ……くそっ……なんで、こんな……無様、な……」

 相変わらず痛む肺に閉口しながら、真名は近くの木にもたれかかる。
 汗まみれの体を、まるで押さえつけるように木に当てる。ぼこぼことした木皮の感触が、背中全体で感じられた。
 少しずつ意識が明瞭になっていくと共に、再び先程の記憶が想起されて、真名は顔を手で覆った。
 
 私が悪かったのか?
 あいつが悪かったのか?
 あいつが悪いに決まっている。私のことなんか知らない癖に、知ったような口振りで――――。
 何が愛だ。何が相手の気持ちだ。
 情に触れれば弱くなる。守るものを知れば弱くなる。
 非情でなければならないのだろうに――――私も、あいつも。
 それなのにあいつは――――

 ――――あいつは。

「――――くそ、私は一体何を――――」

 想起されるのは、楓のあの掴み所のない、そしてどうにも憎めない笑みばかりだった。
 それはつまり、自分が楓のことを全く憎んでいないという事実の裏付けであった。

 ――――私が、本当に憤っていたのは――――


「見つけましたよっ! 龍宮先輩!」

 自らの顔を右手で覆い、うつむき続けていた真名は、唐突に聞えたその声に、素早く反応することができなかった。
 のろりと顔を上げてみると、延々と続くタイルのその先に、一人の少女が立っているのが見える。
 落ち着いた色合いの制服を着た、小柄な少女。
 制服とは相反した派出な金髪を、どこの国のお姫様かとツッコミたくなるような縦ロールにまとめたその少女の姿に、
真名は見覚えがあった。

「きみは確か……佐渡羽良さん、か? 何だ、告白の続きか何かか? というか、何故ここにいる?」

 尚も残る息苦しさから、ところどころ言葉を途切りながらも、真名は飽きれたように言葉を投げ掛ける。
 佐渡羽良 蜜与。つい数時間前、真名に告白してきた麻帆良学園中等部二年の少女であった。
 タイルの上に仁王立ちして、どこか勝ち誇ったような表情の佐渡羽良は、傍から見ればそれなりに可愛らしい
童顔を歪にゆがめて、目前の真名をギラギラした目つきで睨んでいた。

「ふっ、あなたに渡したラブレターに、発信機を仕込んであったのですよ……。私から逃れられると思わないことね。
……それにしても、告白の続きか――――ですって? よくもまぁそんなことが抜け抜けと言えますわね、先輩」

 山手線なんかに乗るとよく見かける、太ったお兄さんなんかに大好評を博しそうなロリータ声をヒステリックに荒げながら、
佐渡羽良は言う。
 真名の方はんなこと知ったことじゃない、といった感じに、荒く息をしながらスカートのポケットを探る。
 可愛らしい色の便箋を取り出すと、それを少し眺め、すぐに引き千切って地面に放った。

「こんなものを仕込むとは、大分趣味が悪いようだな……全く」

 真名が吐き捨てるように呟くが、佐渡羽良は表情を変えない。
 まるで般若のような恐ろしげな表情のままだ。

「佐渡羽良財閥の令嬢として生まれ、初等部、中等部共に『御姉様』と呼び慕われてきたこの私を! この私を無下に扱った
あげくに置いてけぼりにするなど――――生まれて初めて私に苦汁と屈辱を味あわせておいて……
『告白の続きか』『趣味が悪いな』ですってぇ!?こっちが下手に出てりゃいい気になりやがりまして、この淫売褐色雌牛女ァッ!」

 どんどんとエスカレートしていくいわれのない罵詈造言に、真名が少し腹立たしそうに目を細める。
 どうやら、完全に逆恨みをしているらしい。
 自身の身分を偉そうに語れる辺り、またえらくいい身分の生まれのようだが。
 尚も言葉を続ける佐渡羽良は、口元をぎりぎりと引きつらせる。

「――――なんですか、その反抗的な態度。まるで被害者面ですねぇ……乙女の純情を踏み躙ったあなたが被害者なんて、
ちゃんちゃらおかしいですわっ! それもこの私――――佐渡羽良 蜜与の純情を踏み躙ったのであれば尚更ッ!」

 まるで自分を中心に世が回っている、とでも言うかのような佐渡羽良の口調が、唐突に低くなった。

「我が佐渡羽良財閥の恐ろしさ、思い知らせてさしあげましょう! 核さん、輔さん、こらしめておやりなさいっ!」

 どこかで聞いたようなフレーズで佐渡羽良が叫ぶ。
 すると、佐渡羽良の背後でゆらりと気配が立ち上った。

「――――御意に、お嬢」

 同時に響く野太い声は、大柄な男二人のものだった。
 やけに体中シルバーアクセサリーで着飾った、黒人風の男二人は、おそらく身長二メートル近い。
 片方はスキンヘッドで、もう片方はロープを植え込んだようなドレッドヘアーだったが、それ以外に二人の男に
相違点は見受けられない。それが唐突に佐渡羽良の背後の暗がりから現れたのである。
 正直、地面から湧いて出てきたようにしか見えなかった。
 
「佐渡羽良財閥の誇るボディーガード二人組み……フフン、意地でも私のものになってもらいましょうか? た・つ・み・や先輩?」

 にこり、と佐渡羽良が邪笑する。
 ちらりと見えた佐渡羽良の前歯は、鈍い黄金色をしていた。
 
 ――――成金趣味の大馬鹿娘か。

 真名は内心舌打ちして、ふらりと背を預けていた木から体を離す。
 瞬間、大男が動いた。
 先行したのはドレッドヘアーの方だ。腰に付けていたチェーンを取り外すと、それを鞭のように無茶苦茶に振り回す。
 パッと見、アクセサリー用のデザインチェーンかと思われたが、よく見ると違う。
 チェーンに絡ませるように、赤錆まみれの有刺鉄線のようなトゲが巻かれていて、殺傷能力を強化していた。
 威力をあげる他にも、鞭のような武器共通の『掴まれる』という弱点を克服させるのにも一役買っているのだろう。男の
攻撃に躊躇いはなかった。

(少なくとも素人ではない、な)

 ドレッドヘアーが振り回すチェーンを、しかし真名は軽くステップで踏み込んで避け、相手の懐に入る。
 そのまま、伸び上がるような掌底を男の顎に叩き込もうとして――――

 唐突に、ドレッドへアーが背後に飛んだ。チェーンを躊躇い無く手放して。
 振り回された勢いのまま手放されたチェーンは、慣性に従って空中でぐるぐると回転しながら飛び、近くの木に巻きついて静止する。
 真名の攻撃は虚しく空を切り、同時にドレッドヘアーと真名の間に入り込むように、スキンヘッドが割り込んだ。
 スキンヘッドの右手には、歪んだシルエットの禍々しい大振りのナイフ。

(――――なるほど、ますます素人でない)

 スキンヘッドは大きく一歩踏み込むと、右手のナイフを捻じ込むように真名に向けて振るう。
「シャアァ――――ッ!!」
 スキンヘッドが吠える。
 しかし、真名は落ち着いた様子で後ろに跳ぶと、十分な間合いをとってタイルに降り立った。
 すると、スキンヘッドの方も深追いしようとせずにその場で踏み止まり、体を横にして構えを取った。
 まるでフェシングのような構えだ。右手に持ったナイフを前方に突き出し、右腕の軸に体を隠すようにして、左手は腰の後ろに据えて待機させている。
 隙のない構えだった。相手を前方に据えた場合、瞬時に行動できる。

 スキンヘッドとドレッドヘアー、両者がゆっくりと間合いを詰めるように接近してくる。
 ドレッドヘアーの手には、予備のものなのだろう、先程と同じような有刺鉄線付きのチェーンを持っていた。
 諦めの良さも戦い方も、並のチンピラなんかよりはよっぽど勝っている。

「なるほど、流石私が認めただけありますね……先輩。でも、たった一人で戦うには分が悪いとお見受けしますが?」
 
 佐渡羽良が勝ち誇ったような笑みを湛えながら言葉を投げ掛ける。
 その間にも、二人の男はじりじりと間合いを詰め始めていた。
 大方、佐渡羽良との会話に気を引かせて、隙を突くつもりだろう。ますます周到な手口である。

「悪いが慈悲も哀れみも、受けるつもりはない。今私は忙しいんでね。早めに片をつけさせてもらう」

 真名は苛立ちを含んだ口調で言って、右手を胸元に伸ばす。
 息も整い、鮮明になった真名の頭は少しずつ戦闘状態にシフトしつつあった。
 真名の動きに、男二人が警戒心を強める。
 しかし、尚も佐渡羽良は余裕綽々といった感じで、真名の瞳をねっとりと見据えていた。

「そうですねぇ……それじゃあ仕方ないですわ。ちょっと荒っぽいですが――――」

 胸ポケットに仕込んだ護身用のダーツに手を伸ばしかけ、そこで真名は気が付いた。
 佐渡羽良の視線は、真名の方ではなく――――真名の背後に向かっているのだ。
 真名の背後――――何もないはずの、暗がりに。

「少しばかり、プライドをへし折って差し上げますの」

 瞬間、真名の背後に殺気が生まれる。

(――――しまっ――――)

 気付いた時には既に遅かった。

 背後に現れた伏兵――――三人目の男が振り下ろした金属バットが真名の頭頂部を捉え、容赦なく意識を叩き潰した。

 意識を失う前真名が見たのは、歪んだ唇の隙間からのぞく、佐渡羽良の趣味の悪い金歯だった。


 □


「ふっ……佐渡羽良はありとあらゆる手段で勝利を勝ち取ってきた、野心の一族なんですの。不意打ちも心理作戦も
お手の物――――よくやったわ、蜂兵衛」

 頭から血を流してその場に昏倒した真名を見下ろして、佐渡羽良は心底嬉しそうな邪笑を含みつつ、
真名の背後に立った大男を賛美する。
 核、輔と呼ばれた二人よりも、さらに身長の高いその男は、まるで鉄柱に向けて思いっきりぶつけた後のように
ぐにゃりとひん曲がった金属バットを肩に乗っけて、にやにや笑顔で返事をした。

「さぁて、一体どうしてさしあげましょうかしら? 先輩?」
 
 心底嬉しそうに佐渡羽良は言うが、真名は一切返事をしない。
 一応息はしていて、意識も茫洋ながらある。
 ただ、動けるほど元気ではなかった。

「ドウシテ欲しいのか言って御覧なさい、先輩。ほらほらほらほら、ドウシテ欲しいのカシラ先輩ィィィィ?」

 佐渡羽良のロリータ声が、歪んだヴォイスチェンジャーのように変貌し始める。
 硬い革靴の底で真名の頭を踏みつけながら、狂ったように言葉を紡ぐ。

「私はずぅーっと憧れテいたんですの。力強く、凛々しい先輩が無様に床を舐めるその姿二。大丈夫怖くないワ
先輩。私がキチンと調教して、首輪をつけて優しく遊ンで差し上げますノ……」

 恐ろしくサイコなことを言いながら、佐渡羽良は足に力を入れる。
 その表情は、少しずつ少しずつ快感を味わうような快楽的な表情へと変貌し始めていた。
 佐渡羽良が、我慢しきれないとでも言うように、口を開いた。

「アアアああアアああああアアアアああ、良い、良いわ先輩! 素敵! 地面と熱烈キッスをする先輩のその
後頭部がアアアアああアアアアああああああああああアアあア最高、サイコウの快感ダわセンパイ!
 痛い痛い痛いィィィィ!? 恥ずカしイんデショう屈辱デショウ先輩の心中を察スるとワタクシもうもうもう!!」

 ぐりぐりと足を動かし、踏み躙るように真名の後頭部に靴底をめり込ませる。
 刺激された真名の傷口から、じくじくと血が滲み出るが、佐渡羽良は全く気にしない様子で尚も靴底を動かす。
 その表情は恍惚としていて、顔だけ見れば危ないクスリでトリップしているようにさえ見える。
 ――――もっとも、全身を見れば凄まじい変態だという風にしか見えないが。

 ――――何がプラトニックだ。

 失い欠けの意識の中、真名はぽつりとそんなことを思う。

 佐渡羽良が、奇声と共に真名の側頭部を蹴り上げた。ずしりとした痛みと共に、視界が開ける。
 無理矢理仰向けの体勢にされた真名は、そのままゴロリと空を見上げた。
 ――――木々の隙間から、夕焼けが見える。
 やけに赤いと思ったら、自分の血が目に入っていたからだった。

「どう先輩? これが私の受けた屈辱――――骨身に染みたかしら? 本当に無様ね、先輩――――」

 息を切らしながらも満足げな佐渡羽良の声は、しかし真名の耳にはほとんど聞えなかったし、聞えても意味を理解できない。
 ただ、『無様』という一言だけが、やけに鮮明に理解できた。

 ――――楓。私は、私は――――

「――――本当なら、私愛用のオモチャで遊んで差し上げたいところですが……ここはまぁ、今有る物を使って
済ませてしまいましょうか? 調教もお遊びも、後からいくらでもできますし――――」

 佐渡羽良の声。
 オモチャというのが、子供の遊びに使うミニカーなど、可愛げのあるものじゃない、ということはわかる。
 有る物。大方予想がつく。

 ――――無様だ。無様だ――――

「輔さん、核さん……あと蜂兵衛。手短に済ませちゃいなさい。何時だったかみたいに、勢い余って殺したら
承知しないからね?」

「御意に、お嬢」

 先程まで黙って佐渡羽良の行動を見守っていた三人の大男は、待っていましたとばかりに声をそろえる。
 地面に寝転んだ真名に近付いてしゃがみ込むと、その衣服を嬉々としてむしりはじめる。
 別段、これからヌードデッサンをする訳でも、汚れた衣服を洗濯するのでも、ない。
 男の息遣いが聞える。



 そんな中で、真名の頭の中を支配していたのは、恐怖でもなんでもなく。


 ただ、いつも一緒にいてくれた友人の顔。






 ――――楓、本当は、本当は――――



 わかって、欲しかった。


 わかって欲しくて。


 わかって欲しかったから。


 それなのに。


 それなのに――――


 ただ、どうしても意地悪な私は――――



 ――――わかって、くれていたのに。




「――――楓……」


 真名が、声を絞り上げた。



































 ――――助けて。






































「全く、世話のかかる友人でござる」





 声が聞えた。


「――――誰ですのっ!?」

 続いて聞えるのは、佐渡羽良の声。


 誰……だって?










 そいつは、私の馬鹿な親友だ。


 何か問題でもあるのか、サド女。









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